小林 隆児
(こばやし りゅうじ)
自閉症の子どもに私が初めて出会ったのは1970(昭和45)年。当時二十歳になったばかりの医学生の頃で、自閉症のボランティア活動に参加した時でした。以来、早や半世紀が経過しました。
平成の時代を振り返ると、昭和最後の1988(昭和63)年、医学部から教育学部に移り、それまで育てていただいた医学部から距離を置き、自らの頭で臨床と研究に真剣に向き合い始めました。その後の6年間、一人で臨床と向き合い、私に大きなヒントを与えてくれた自閉症の子どもたちは少なくありませんが、そこで私は自閉症の早期治療の可能性を強く感じ取っていましたが、本格的に乳幼児とその養育者を対象に、母子臨床を推進するようになったのは、ある大学の新学部に職を得て、母子ユニット(Mother-Infant Unit;MIU)を創設してからですが、それは1994(平成6)年のことです。それからもすでに四半世紀が過ぎました。
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この五十年で私が今辿り着いたのが「感性教育」です。
自閉症をはじめとする発達障碍の子どもたちを乳幼児期早期から母子の関係の相で観察する中で、独特な関係病理を見出し、それを「あまのじゃく」と呼ぶことにしました。それは「甘え」という情動のアンビヴァレントな動き、つまり「甘えたくても甘えられない」こころの動きを示すものですが、1歳台ではそれから生まれる不安と緊張が比較的明瞭なかたちで行動となって表に現れることを明らかにしました。しかし、2歳台以降になると、途端に不安への対処行動が前景化し、不安と緊張は背景化することがわかってきました。さらに、多様な対処行動が固定化したものが従来指摘されてきた症状であることもわかってきました。このことは、当初の不安と緊張は心理的防衛の働きによって無意識の層に潜在化し、それに代わって症状が前景化するということを意味することがわかったのです。
さらに興味深いことに、潜在化した不安の源となっている情動の動きとしてのアンビヴァレンスは、私たちの目から雲隠れして、全く捉えることができない、と思われがちですが、じつはそうではないこともわかってきました。
常々私は関係ないしコミュニケーションを二重の相で捉える中で種々の関係病理を考えてきました。当初は情動的・象徴的水準と称し、今では感性的・理性的水準と呼ぶことが多いのですが、先のアンビヴァレンスという情動の動きはこの感性的コミュニケーションの相で比較的容易に誰でもその気になれば、捉えることができることがわかったのです。ただし、そのためには理性に頼るのではなく、感性に身を委ねる姿勢が求められるのです。
そこで私が思いついたのが「感性教育」でした。すでにこの4、5年機会あるごとに試みてきましたが、そこでわかってきたのは、感性の働きを阻害する要因がいくつもあることでした。それは臨床教育そのものに大きく関わる重大事であると切実に思うようになりました。
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そのような思いを具現化して論じたのが拙著『臨床家の感性を磨く』(誠信書房)ですが、私の試みている感性教育の方法はいたってシンプルです。新奇場面法で記録した母子観察録画ビデオを供覧し、感じたままに自由に語り合い、自分や他の人たちの着眼点や解釈を通して、自己理解を深めてもらうということを意図したものです。なぜ自己理解かといえば、自らの身体を介して感じてこそ、初めてアンビヴァレンスを理解することが可能になると思うからです。
子ども虐待のみならずいまや発達障碍の臨床においてもアタッチメントの重要性が力説されるようになっています。「発達」の「障碍」を考えれば、至極当然の話です。生まれて初めて出会う重要な他者との関係がその後の人生に多大な影響を及ぼすことはエリクソンの基本的信頼感を取り上げるまでもなかろうかと思います。
私が人生の根源的不安として位置付けている「甘え」のアンビヴァレンスは、その後の対人関係の質を根本から規定するゆえ、臨床現場では可能な限り早期の段階で気づきを促すことが求められます。
アンビヴァレンスは情動の動きゆえに、感じ取ることでしか掴み取ることはできないのですが、行動科学を基盤とした客観性重視の姿勢は、アタッチメントという行動学的観点からの行動規定に基づくアタッチメント・パターンの判定が重要視されています。
そこで考えてほしいのは、私の主張するアンビヴァレンスは、アタッチメント・パターンのCタイプ(アンビヴァレント・タイプ)でいうところのアンビヴァレンスとは似て非なるものだということである。私に言わせれば、Aタイプであれ、Dタイプであれ、(いわんやBタイプであっても)そこに必ずアンビヴァレンスという情動の動きが多少なりとも母子間に立ち上がっているものです。情動の動きとしてのアンビヴァレンスはなんらかの準拠枠で客観的な指標として指し示すことは原理的に不可能です。臨床家は行動の背後に蠢いているアンビヴァレンスを感じ取ることが求められるのはそのためです。このことは実際の臨床をする際にとりわけ重要となる。
以上のような根拠から、私はこれまで蓄積してきた感性教育で学生たちから多くのことを教えられてきました。特に大学院生に試みるなかで、彼らがこぞって過去の自らの親との関係で体験したアンビヴァレンスを想起するようになりますが、それがあって初めて彼らも目の前の子どもと親との間に立ち上がるアンビヴァレントな情動の動きを自らの感性で感じ取ることができるようになるのです。
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「甘え」文化で育った日本人であれば、「甘え」のアンビヴァレンスがからんだ多様な言動は、自らの過去の経験に即して誰でも比較的容易に感じ取ることができるものです。
「甘え」理論を構築した精神科医土居健郎は、若いころにアメリカで現地の精神科医の面接の実際を観察した際に、「アメリカの精神科医は概して、患者がどうにもならずもがいている状態に対して恐ろしく鈍感であると思うようになった。いいかえれば、彼らは患者の隠れた甘え(アンビヴァレンス:注、小林)を容易に感知しないのである。」(『「甘え」の構造』、16頁)と感想を述べています。
さらに遺書『臨床精神医学の方法』(岩崎学術出版社)のなかで土居はつぎにようにも述べています。「(集団療法でいかにして患者を理解するかについて語る中で:小林注)甘えとアンビヴァレンスとは実は背中合わせなのである。(中略)したがって、その辺の事情を承知していれば、日本人のグループ過程に伴う葛藤を十分に捉えることが可能になるのである。それはしばしば非常に微妙な、それこそ言語化されないような、声の抑揚、身振り手振りといったような所作であることが多い。ただ、このような微妙な手掛かりを捉えるためには、治療者自身十分『甘え』の心理に習熟していなければならないだろう。なによりも自分の甘えがわかっていなければならない。言い換えれば自分のアンビヴァレンスが見えていなければならない。そしてそれこそ最も困難なことであるといわなければならないのである。」(『臨床精神医学の方法』、26-27頁)
自らのアンビヴァレンスが見えるようになること、それは日本人であってもさほど容易なことではないのです。しかし、それを避けて通ることはできません。なぜなら、幼少期の強いアンビヴァレンスの体験を潜在的に抱え込みながら生きている患者に対峙する臨床を実践するためには臨床家にもそれ相応の覚悟が求められるからです。
その意味からすれば、感性教育で学生が語ってくれた体験談は、自らの体験を内省的に理解し直すことによって、実感を持ってアンビヴァレンスを理解することができるようになったことを示しているといえましょう。それは学生たちにとって単なる知識の習得という域に収まるものではなく、人格の発達成長にもつながるものであることがわかります。
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以上、現在私がなぜ「感性教育」の啓蒙に強い思いを抱くようになったか、その経緯を述べてきました。私も2020(令和2)年3月、西南学院大学で定年退職を迎えることになりました。今後は一精神科医に立ち返り、従来の臨床活動とともに、「感性教育」を通して優れた臨床家を育てるための啓蒙活動に従事したいと考え、「感性教育臨床研究所」を開設する運びとなりました。今後もみなさまのご指導とご鞭撻をお願い申し上げる次第です。
2019年冬